昭和50年11月12日 朝の御理解
御理解 第77節
「人の悪いことをよう言う者がある。そこにもしおったら、なるたけ逃げよ。蔭で人を助けよ。」
今の合楽の信心にピッタリした御教えだと思います。今合楽で信心と言う事を言われます。所謂心行というのは「暑い寒いを言うてはならぬ、不平不足を言うてはならぬ」同時に、今日の御理解「人の悪い事を言うてはならぬ」と言う事にもなります。所が悪い所が目につきます。悪口を言われたりしますと、言うて返さにゃおられない事があります。けれども、人の悪い所が見えたりします所が、結局おかげの受けられない心、自分の心の隙間、または破れから見ておるんだと思うたら。
自分の心が有難いでいっぱいの時は、それこそ人の不行状を見てもです、最後の所で仰っています、「蔭で人を助けよ」という働きが心の中に、もりもりと起こって来るです。不思議です。目に余るような、例えば悪口でも言わねば居られない。不平不足でも言わねばおらないと言った様なです、自分の心がおかげの受けられない心の状態の時だと思うたらよいです。そしておかげを受けなければという一念をもっともっと強く持つ事だと。不平不足が出る。人の悪い所が見える。
それはおかげを受けたいという思い、口では言いながら、おかげを頂きたいと言いながら、おかげを頂きたいとの思いが神様に通じる程しの一念ではない事が解ると、ああ自分の願いというものはこんなに貧弱であると言う事が解るです。不平不足が出る程しの心の状態、人の悪い所が目につく様な自分。そこでもっともっとなら切実におかげを受けたいという心を起こさなければならん。所謂有難くならせて貰わなければならないと言う事になります。豊かにもならして貰う。
大きくもならして貰うと、それは大きなおかげを頂きたいから、こんな事では大きなおかげは受けられないと、先ず思わなければならないと思うて、愈々より大きくならして頂く、豊かにならして頂く稽古を本気でさして貰う。それだけではない。ゆとりが出来て来る。いわゆる「蔭で人を助けよ」と言う様なおかげが頂かれるようになって来る。商売仇を祈るとか、願うとかとよく申しますね。
それが段々信心がわかって来る事は、段々有難くなって来ると言う事でしょうけれども、有難うなって参りますとです、言うなら相手も、言うなら商売仇と思うておった、その人達も、どうでもおかげを頂いて貰わなければおられない。昨日私は教報を見さして頂いておりましたら、もう正しくこれはまあ、金光教の教会に来るものですけれども、これにいろいろな最近、いわゆる金光教の信心をどういう風にして建て直すかと、またどう言う様な所を改めるか。
いわゆる革命的に、それを高めて行くかという話で一杯であります。中である先生が正しく合楽の事を、合楽とは書いてないけど、合楽の事を言うてあるなあと、うちに一遍手紙が来ましたのと同じ様な事が書いてある。合楽教会ではよその信者を、合楽教会とは書いてありません。そして各地区に共励機関を設けて、よその信者の家にも押しかけて行って、信者一同が話をしに行く。ま、言う事が、そう言う事ではいけないと言う事である。言われて見ると確かにそうですね。
昨日は指出地区の共励会とか、直方の共励会でありましたけど、西直方の教会の信徒総代で、お宅でしたでしょう。昨日はああ安東さんですか、直方地区では今二ヶ所であっております。安東さんの方は、ここの根っからの信者さんですから、ですけど行本さんとか、あちらから参って見えられる方達のお家で、「家に来てくれそこの信者も一緒に共励して行きたい、話も聞きたい」と言われるのだそうです。だから向こうの信者さん方もそこに集まられるのである。
そして合楽から行って、合楽が中心になって、共励をすると言う様な訳ですから、成程よその教会に。まあ言うなら正しく合楽の事であると思われる悪口が言ってある。それを読ませて頂きよって、もう素晴らしい文章の出来る先生ですから、そしてまた言っておられることも半分は非常に素晴らしい事ですから、まあ私はそれを読ませて頂きよってから、何か心がいよいよ和んでくる感じがするのです。
まあとりわけ、昨日頂いた御理解の中に頂いとりますように、例えば人間心をもって、例えば教会を大きくしようとか、教団を大きくしようとか、そのための手段方法というものは、丁度それは蓮根畑を埋め立てて行くようなもんで、言うなら神様のおかげを下さろうとする神様の働きを狭めて行くようなもので、いかにもそれは埋め立てたから、広がって行くようであるが、実を言うたらおかげの世界、ことに神様のお働きを頂ける世界が少なくなって行くのだと。
それよりも自分自身の心の開拓、いわゆる未開の地の方に眼を向けなければならないというお知らせを頂いておりましたが、もう正しく蓮根堀を埋め立てて行こうと努力しておられることが書いてある。それで本当に本気に祈らにゃおられません。願わなければおられなかった。成程それはいかにも人智人力をもってして、は行くようであるとして、たかが知れておる。
しかもそれは神様の、言うならば働きというか、神の力というものを、自分の力でしたと言う様な、我力は強くなっても、神力を愈々有難いものに現わすことは出来ない訳ですから、矢張り祈らなければおられない。こういう悪口を言いよるばいな、と例えば思うてです、ならそれを悪口を言い返すとか、憎み合うと言った様なものではなくて、問題は合楽ではもう人が助かる事さえ出来ればという一念。
ですから一部から悪く言われても、矢張り神様の働き、自分で行こうと言うのではない、神様の働き、神様の水を向けて下さるような、やはり動かねばおられない。けれどもまあ一見見たところではいかにも合楽が、その信者を、どのような風にも見えましょうが、から悪口も言われましょうが。けれども「蔭で人を助けよ」と言われる働きは、愈々強うなるばっかりであります。
人の悪口を言うとか、見えるとかと、愈々自分自身が身を正さなければならない時であるということ。そして、今合楽で言われておる、もう外に表行と言う事を、言わば全然致しませんのですから、本気で私共が信行に取り組む、本気で心行に取組んでおるならばです、蔭で人を助けるという働きが、もう非常に強いものになります。三代金光様が子供の泣き声を聞かれると、むづがっておるのを聞かれると、その子供の事を祈られ、願われる。上に飛行機の爆音を聞かれると。
「どうぞ無事に目的地に到着出来るようにと祈ります」と仰せられたが、それはもう心行の現れです。誰も知らん誰も知ってはいない、自分の心で神様に人が助かる事の働き、蔭で人を助けると言う事は、矢張り祈る事だと思うです。悪口を言わなければならぬような、又は悪口を聞かねば成らない様な時でも、聞きながら言うておる人の事を願い、言われている人の事を願われる、と言う様な信心が出来なければいけないと思います。もう合楽は今、ここにおく以外にないです、心行。
折角悪口を言いよんなさる所を、そげん人の悪口ばかり言うなと言うと、又相手を傷つけますから。けど言うておる人の事を願う、言われている人の事を願う、私はそういう心がけがもう、言うならば四六時中自分の心の中になからなければいけない。テレビなんかを見ておりましてもね、もう本当に見ながら祈らなければおられない事が沢山ございますでしょうが。「ほうどげな事でんありよるとか」まあ困った事がありよると、只ニュース的に見るだけでなくて、もう祈らなければおられない事ばかりです。
あれは以前でしたけれども、オーストラリアの砂漠地帯、いわゆるそこの現地の人達というのがニュースに取り上げてありましたが、ね、テレビに。別に仕事と言う事はない、只食べるものを求めてあちらへ行き、こちらへ行きしとるだけ、しかも一家家族中、夜は砂を着て、砂を握って、砂の中に寝ると言う様な生活です。もう食べ物は何かというとトカゲが主食、もう親子でトカゲを追ってまわる追っているのです。
この位二、三尺位のトカゲをね、親子で追って行きよるわけです。所がトカゲがね逃げ込んで行っておる、それを一生懸命でそれを掘って取りよるとがね、もう本当にそれを見せて頂きながらね、その一日に一足それを取らなければね、家族中の者が腹干さんならん。だからもう必死です。もうそれを一生懸命で今日一日の糧、家中の者の糧がその事を祈らせて頂いた事がございました。
もうそしたら見よったら、涙が流れてくる程に、私は神様に自分の心が通ったという風に感じた。かげで人を助けると言う事を、程素晴らしいとはない素晴らしい心行でありますから、その祈らせて頂いておる、その自分が有難うなってくるです。それほどに神様に通うのです。どげん思うたっちゃあん奴が事は願われんと言った様な事ではなくて、もうあん奴がと思うようなのが本当に、その人の事を祈らにゃおられん。願わなければおられん。それこそ商売仇の誰彼の事を祈られなければおられない。
そこにね合楽教会の信心によって、御教えによって助かった人の姿があるです。田主丸のむつやさん達が、初めて当時の椛目に参って見える。当初の頃は売出し、田主丸の町に商工会で売出しがあったり致しますと、あそこは大きな商店がズラリ並んでおります。それでもうそりゃ本当に、もう売出し中には逆上せてしもうて、もう口が切れたり必ずしよった。もうよその包紙を持って、その店の前の町を通っておられると、もうたまらなかった。
それがね当時の椛目にお参りするようになって、おかげでもうその口が荒れんようになった。口が切れんようになった。もう本当に例えよその包紙を持って表を通られても、お礼を言う心こそ生まれて来るけれども、もうはがゆいとかよその店が繁盛しよるのを見て、口が荒れる様な事がなくなったとお届けされた事がございました。本当に私共は商売仇のと、今まで言うておったのが。
本当に同業者として一緒に助かって行く、一緒に助かって行きたいと言う様な物が持てれるくらいなゆとりは頂きたい。悪口を聞く様な時には直接聞かんでよいものであるならば、出来るだけその場を逃げる様な気持ちが必要。けれども人の悪口と言うたら聞き耳を立てたい様な衝動が人間にはある。それだけでもだから修行です。又は悪口をささやかれ、言われる時はです、言うておる人の心をの上に願いをかけ。
言われておる人の助かりとして願う。そういう私は、あの「陰で人を助ける」と言う事がです、神様の心に通うという通っておるという実感がね信心をさして頂きたい。それには愈々合楽で言われておる、今の心行です人が助かる事に人が喜ばれる事に、言う事ばかりを、思い続けておる。只自分の所のお客さんだけ、お客さんが喜んで下さればよいというだけではなくて、心行の言うならば場を広げて行くというか。
深さを掘り下げて行くという、今の合楽の行き方に、この七十七節はピッタリきていると言う様に感じます。陰で人を助けれる人にならして貰う、陰で人の事が祈れる私にならして頂こう。ためには絶えず心行を心がける事、もし不平不足が出る。又は人の悪口でも言わねばおれない時には、もう愈々自分は、おかげの受けられない心の状態である事を気付かして頂いて、一段心に行かけさして頂かなければならんと思います。
どうぞ。